先日こんなツイートしたんだけど。
私は発達障害の事を義務教育で教えて欲しいと思ってます。
いや、実際には難しいですよ?
発達障害を抱えている子はそれを望まないかもしれない。
親も(内緒にしてるのに言わないで)と思うかもしれない。
でも、そんな風に感じるのは、発達障害への偏見がある社会だからじゃないでしょうか。
偏見のない社会なら隠す必要なんてないし堂々と発達障害について共に学べるはず。
というか、そんな社会ならそれはもはや障害ではなくなるので話の根本が覆るんですが。
覆ればいい。
発達障害って少数派なだけですから、環境が整えばそれは障害では無くなるはずなんですよね。
だから、その環境整備の一環として義務教育で教えて欲しい。
余計なノイズの無い、純真無垢な子どものうちに。
発育段階である子どものうちに少数派の特性について学ぶことはプラスの作用があるように思います。
周りとのズレを感じて苦しむ長男
私がそう感じるようになったのは、長男が苦しそうだから。
彼は定期的にメンタルが不安定になるんですよね。
そして、その理由は教えてもらえません(悲)
でも主治医には話せてるんで、この前主治医からこんな風に教えてもらいました。
周囲とのズレを感じてるんでしょうね。
グレーならではの辛さです。
主治医は息子との間に守秘義務があるし、私も詳しくは聞かないんで具体的に何があったのかはわかりません。でも、いつもこうやって大まかな内容は教えてもらえてます。
グレーならではの辛さ
主治医が言う グレーならではの辛さ
彼は診断がついておらず、普通級にいるんだけど、
皆が当たり前にできてることが彼にとってはそうではなく。
そこに使うエネルギーは膨大で、1人孤独に苦しむことがよくあります。
だから思うんですよねぇ。
義務教育に発達障害の学びを入れたらいいのに って。
自分とは違う「普通」があるんだよ
だってクラスに2~3人はいると言われてるんですよ?発達に特性がある子って。
そう考えたら身近な問題じゃないですか。学校って身近な問題扱う場所じゃないの?
それが当たり前だと教えて欲しい。
そしたら長男のように、周囲とのズレに苦しむ子が減るかもしれない。
彼らが感じるズレは無くならないだろうけど、ズレが当たり前になることはあると思う。
そしたら生きやすくならないかなぁ。
血液型の違いと同じだよ
障害って名がつくと抵抗ある人いると思うけど、これは単なるタイプの違いだから。血液型と同じように考えるのもアリだと思う。
血液型の授業ってありますよね。
血液型の授業しまーす
A型 B型 O型 AB型に分かれまーす
って授業があるのなら
発達障害の授業しまーす
ASD ADHD LD に分かれまーす
と。
こんな授業があってもいい。
道徳なのか学活なのか特別授業なのか?そのあたりはわからないけど。
なんでもいいから当たり前に学ぶことはできないだろうか。
それができれば休憩時間や放課後に、子ども達の会話で。
「俺さっき先生が言ってたASDなんだ」
「じゃあ集中力がすごいんだね!」
「いや~こだわりも強いけどね」
「だから掃除綺麗にしてくれるんだね」
とか
「わたしADHDだから忘れ物多いんだよね」
「でも発想力が豊かって先生言ってたよね。私なんて平凡でさー」
みたな会話が自然にできるかもしれない。
偏見がないうちに学びたい
偏見がない素直な子どもの頃に、血液型が違うように発達にも違いがあって、それは当たり前のことなんだと、当たり前に学べばいい。
互いの凹凸を補い合い、活かしあえる関係になればいいと思います。
理想論だけど。
実際は難しい事はわかってる。
そもそも学校の先生方が発達障害の知識を熟知してるかと言ったらそうではないし。
反対する保護者も多いと思います。
聞いたことないもんね、こんなこと願ってる親。
でも私は願ってる。
いつか発達の多様性が当たり前になり、発達障害という言葉が無くなればいいと思います。
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